10万人と会話した男
当ブログにお越しいただきありがとうございます!
10万人と会話してきた『ちょぬ』と申します!
一説によると、人が生涯の中で出会う人数は30,000人ほどと言われている中で、私は3倍以上の方たちと出会ってきました。
10万人=バチカン市国全員(7.1万人)
10万人=東京ドーム2個分(11万人)
なので、バチカン市国以上・東京ドーム2個未満の男と覚えてください(笑)
それもこれも10数年に及ぶ接客業、特に水商売に従事してきたからこそ接することができた数字です。
『人が好き』
ただこの一点で今日まで過ごしてきました。
一人一人が持つ感性や考え方、生き方、悩み、などなど多種多様なお話をすることで、まるで別の人の追体験ができるような感覚が非常に興味深く感じ、この経験を発信できないか?と思い当ブログを立ち上げました。
筆者の生い立ち
筆者が、なぜ10万人と会話するようになったのか?
人生を振り返ると、いくつかのターニングポイントがありました。
同じような境遇の方も多いと思いますが、筆者には父親が居ません。
母親の苦労や涙を見て、他の方にも同じ思いをしてほしくないと幼いながらに感じた記憶があります。
幸せいっぱいだった幼少期
海なし県の田舎で育った筆者は、野球が好きで地元のクラブのピッチャーを任されていました。
その時の監督は父親でした。
毎日、遅くまでキャッチボールに付き合ってもらい、いい球を投げるとたまに買ってくれたコーラは今でも覚えています。
父、父方の祖母、母、兄、筆者、産まれたばかりの弟の5人家族。
優しい父と優しい母、仲の良い兄弟、とくに不自由も無く過ごしていました。
しかし、小学校に上がったあたりから、父と母が二人でいることを見ることが少なくなっていった記憶があります。
家族が壊れた小学校期
父は浮気をしていました。
職場の女性と3年に渡り浮気をしていたそうです。
夜中の怒鳴り声で、飛び起きました。
見たことのない母の涙、あんなにやさしかった父親は別人のように怒声をあげていました。
兄と二人で恐怖におびえたことを覚えています。
母は前から気づいており、しかし私たちの為に我慢していたことを知ったのもこの時でした。
そして、この時も父を許そうとしていました。
今思えば、私たちのことを第一優先に考え自分の気持ちを押し殺してくれていたのです。
それに比べ父親は、自分はまじめに働いてきた。子供も養っている。浮気ぐらいガタガタ言うな。
と怒鳴り散らしていました。
兄と泣きながら布団に逃げ、手をつないで寝ましたが、きっと自分たちはお荷物なんだとお互いが感じていたと思います。
結果、母は父親を許しました。
父親も別れるということで収まったのです。
これでひとまず終わり。
母は言い合いの次の日、私と兄に『おとうさん迎えに行ってあげようか』と職場まで一緒に連れて行ってくれました。
母なりの家族再構築の一歩だったのだと思います。
しかし、その時見たのは
浮気相手と手をつなぎながら出てくる父親。
母は一言、
『ごめん…もう無理…』
とだけ言い、無言で私たちは家に帰りました。
荒れずに済んだ青年期
ここから離婚まではよく覚えていません。
とにかくいつの間にか居なくなった父親、たまにお風呂場で幼い弟を抱きながら泣いている母。
物心のついている私たちに極力涙を見せないようにふるまってくれていました。
こうして、よくある片親家庭となったのですが、幸い私も兄も変にグレたりすることもなく、どちらかと言えば母の負担にならないように率先して手伝い、幼い弟の面倒を二人でよく見ていました。
今思えば、歳の離れた弟がいてくれたから、我が家は一丸となっていたのかもしれません。
ただ、そこはやはりまだまだ子供の私と兄は、変わってしまった環境と母に苛立ち、ケンカもよくしましたし、ふと兄が何も言わずに1日いなくなってしまったりと若干不安定な日々を過ごしていました。
このときに、『なんで俺だけ…』と強く思っていたことを覚えています。
人間関係になじめなかった社会人1年生
高校を卒業しある企業に入社しました。
テレビでも見る企業の工場員として安定していた企業でした。
母は心から喜んでくれ、やっと私も親孝行ができたと思えました。
しかし、いなくなった父親を目の敵にするように、大人の男性がすっかり嫌いになっていた私は、職場の人間関係に馴染めず半年で辞めてしまいました。
辞める時に母には伝えることができず、出勤しているふりを数日続けていました。
『このままじゃ本当にまずい』
そう考えた私は、興味のあった飲食業の求人を探しました。
弟が幼かったので、離婚してからは私が弟に食事を作ることが多く、料理の楽しさ、美味しいの嬉しさが楽しかったのです。
さっそく求人誌を見ていると、そこには『バーテンダー』の文字がありました。
その求人は東京のお店でした。
もちろん、田舎にバーは無いので、地元を出るかどうか悩みました。
しかし、カウンター越しに一期一会のお客様と会話する。ということがたまらなく魅力的に感じたのです。
大人とうまく関われなかった私ですが、人が嫌いなわけではありません。
『どうせ大人なんてずるくて悪い人なんだ』
と知りもしないのに決めつけていただけなのです。
今思えば、そう思うことによって人との関係が壊れることにおびえていただけだったのだと思います。
もちろん、バーテンダー=かっこいい!という単純な頭と、いろいろな人に関わりたい・自分のことも知ってほしい。という承認欲求が私を突き動かし、上京を決めました。
地元から東京まで2時間ほどでしたが、当時の私には大きな決断でした。
自分を変えたバーテンダー時代
目的の店に採用される前に、東京に一人で向いその日に物件契約しました。
しかし無知な私は保証人の存在を知らず、母に電話し初めてそこで企業を辞めたことを伝えました。
その時に母を泣かせてしまいましたが、説得し保証人になってもらいました。
なんとか家を確保し、いざ面接。
本当に良いオーナーで、その日に採用いただき次の日には働き始めました。
そこからは毎日長時間労働、慣れない深夜勤務、慣れない一人暮らしで大変でしたが充実した日々を送っていました。
数日たち、衝撃的な出会いがありました。
長期休暇から戻ったキッチンの社員、全身タトゥーのYさん。
第一印象は無口でめちゃくちゃ怖いヒトでした。
しかし、境遇が私と似ていて一緒に働くうちに少しづつ目をかけてくれるようになりました。
ある日、Yさんの勧めでバーをやってみろということで、まともに話せない私が強制的にバーカウンターでお酒を練習する日々が始まりました。
カウンターは常連さんだらけの世界、目の前でお酒をつくるたびに手が震えていました(笑)
しかし、結果的にこれが今の私を作ることになります。
バーの常連さんはとても暖かく、若かった私が珍しいようでたくさん話しかけていただきました。
男性、女性、社長からフリーターまでたくさんの方がバーカウンターでは肩書の鎧を脱いで、一人の人間としてコミュニケーションを取り合っていたのです。
私も、
なんでここで働いているのか?
友達は?家族は?
いろいろと話を聞かれるので答えていると、共感してくださる方も多く、不思議と自分の偏った考えは解消されていきました。
だんだんと笑顔も増え、接客にも慣れてくると、次は常連さんに限らず一元のお客様もたくさんのお話を私にしてくれるようになりました。
そのなかで、やはり『人間関係の悩み』が7割を超えていました。
恋人、職場、夫婦など若造に惜しげもなくさらけ出してくれるのです。
一生懸命私なりの意見を言っていると、次第に感謝されるようになり、
『悩みを聞く・ちょっと背中を押させていただく』
ことにやりがいを感じるようになりました。
これが、今の私の核と言ってもよい濃密な経験でした。
現在
現在は飲食業に関わる仕事をしながら、家庭を持っています。
バーテンダー時代に経験したすべてが血肉になり、穏やかな毎日を過ごしています。
まあ、10年務めた会社をクビになったりしましたが(笑)
母や兄弟との関係も非常によく、母の還暦祝いに私たち家族だけで旅行にも連れていくことができました。
もちろん、今に至るまでもトラブルがなかったわけではありませんし、数多の人間関係のこじれと遭遇しましたが、いずれもフラットな気持ちで話を聞き、私なりに意見を伝え関係を改善してきました。
実践的な会話を続けてきたおかげか、心理学にもつながる部分が多く、今は資格取得を目指しながら勉強半分・お役立ち半分のつもりでこのブログを立ち上げました。
過去の私のように、人との距離がわからなくなってしまった方に少しでも寄り添えればと思っています。
あなたの人生がちょっと良くなるお手伝いをさせてください。
『ザンネンなヒトたち』があなたに伝えたいこと
当ブログは単なる物語に偏ったブログではなく、実際に筆者が体験したトラブルや様々な性格の方のお話を心理学的観点と共にあなたの人間関係の悩みや自身の行動の見直し、そしてちょっと明るい人間関係の構築のお手伝いをします。
『ザンネンなヒトたち』に込めた想いは、
あと一歩変われば状況が好転するのに、その一歩が踏み出せない・踏み出し方がわからない、いわゆる『惜しい人』であり、どこか可愛げのある『愛すべき人』です。
当ブログの記事を読んで、ケーススタディをしながらより良い関係構築に役立ててもらえれば幸いです。